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41.Mさん

41回目の『いわきの生の声』を掲載しました。今回は『Mさん』が書いてくれました。


震災から一年が過ぎました。

2011年3月11日、私は仙台で被災し、たくさんの被害を目の当たりにしました。


震災直後私は、原発の影響でとある町からいわきに避難してきた方が集まる避難所へボランティアに行きました。

そこで見たものは私が仙台で経験した避難所の生活とは異なっていました。

ある高校の体育館に入りきらないくらいの人が入らざるを得なくなり、足も伸ばすことも出来ず正座や体育座りをして毛布をからだに巻いて暖をとっていました。

その現状を目の前にして何もしてあげられない自分に情けなさやふがいなさを感じたこと、一生忘れません。


現在のいわきといえば、
ハワイアンズやアクアマリンも再オープンし震災前のいわきに少しずつ戻ってきてるのではと思えます。

しかし、沿岸部のいわきはまだまだ復興にむけて頑張っている途中です。

時間も費用も体力、気力もかかると思います。


リトルいわきで中心に動いているメンバーの大部分は今春で社会人第一歩を踏み出すという方が多いです!


いわきを離れた人は、いわき市民がこれから
福島県のいわき出身です!
と堂々と主張できる社会を作ってほしいです。

そして東北に残る人は、復興に直接働きかけられるような人間にひとりひとりがなってほしいです。

このことは私だけではなくおそらくみんなが考えていると思います。

こうしてひとりひとりが震災の記憶を胸に刻み、協力しあって、いわき、福島、東北がこの壁を乗り越えてよりよいまちになるように心から祈ります。

40.Kさん

40回目の『いわきの生の声』を掲載しました。今回は『Kさん』が書いてくれました。


あの震災から早くも1年が過ぎてしまいましたね。
私はあの時、東京で就活をしていました。いわきが大変な状況と知りつつも、何もできない自分に腹立たしさを感じたことを覚えています。
今回は私の地元で災害ボランティアと復興プロジェクトに関わる友人のことを書きたいと思います。

震災後、友人は地元のボランティアセンターに携わり、多くのボランティアの方々と関わってきました。ボランティアも最初は県内の方が多かったのですが、徐々に全国各地、イギリスから来てくれた方もいたそうです。何度も何度も足を運んでくれた方もいたと聞きます。ボランティアの主な活動としてはがれきの処理や流された持ち物を持ち主に返したりと様々でした。そのボランティアセンターも5月末で閉鎖、現在は復興プロジェクトとして動いていて、今年の3月11日には鎮魂祭も行いました。


失ったものは多いけれど、この震災で出会えた人もいて、得たものもあったと感じました。
地元で友人のように復興に携わる人々をどう支えていくことができるのか、いわきから離れたところにいながらどう復興を支援していけるのか考えていきたいと思います。

いわき、福島が以前よりももっといい街になることを祈っています。

39.Kさん

39回目の『いわきの生の声』を掲載しました。今回は『Kさん』が書いてくれました。

先日、震災から1年を向かえましたね。
私は百貨店で研修中でしたが、震災の起きた14時46分には放送が流れ黙祷が行われました。

震災後、実家に帰省した際津波の被害にあった久之浜周辺の様子を両親と見に行きました。
大きなテトラポットが100m近く流されているのを目の当たりにし、津波というものの威力が、何の準備もできていなかった体一つの人間の太刀打ちできるものではないことをまざまざと見せつけられたように感じました。
ふだんから小さな地震は多いものの、温暖で大きな災害に見舞われたことのないいわきにとって想像をはるかに越えたものでしたね。
生まれ育った故郷がこういった形で有名になってしまったことを悲しく思います。

たくさんの尊い命が奪われた中で、今生きている私たちには震災で起こったこと、辛い現実をしっかり目に焼き付きつけて後世に伝えていくことも義務のひとつであると感じました。

また、国内海外多くの方々から支援をいただいたことを、今後恩返しをしていくことで、助け合いの輪が大きくなり、平和へのよい循環に繋がればと思います。



38.Tさん

38回目の『いわきの生の声』を掲載しました。今回は『Tさん』が書いてくれました。


震災後、わたしは東京にいた。

その中で、私の人生を大きく変えた言葉に出会った。
私は東京の公務員になるため、専門の塾に通っていた。特に何になりたいというものはなかったけど、小さい頃から東京でバリバリ働くキャリアウーマンになるのが夢で、その夢に向かって必死に努力している最中だった。

塾で自習をしている時聞こえてきた言葉。


「こんな時だし、被災地の役所とか穴場だろうな。とりあえず滑り止めで受けとくか。」

この言葉を筆頭に笑い合う仲間たち。
この言葉がどうしても許せなくて、やるせなくて、やり場のない怒りや悲しみや悔しさがごちゃ混ぜになった感覚を今でも覚えている。


こんな人達に私が生まれ育ってきた大好きないわきの復興を任せることはできない、心から強くそう思った。

地元に戻ろうか迷っている時には、よく、「放射能危ないし、絶対止めたほうがいいよ」という人がいた。こういうことを言われるたびに、とても嫌な気分になった。やっぱり震災で受けた辛く悲しく悔しい気持ちというのは被災地に住む当事者しかわからないのかと落胆した。

この出来事をきっかけに自分にしかできない仕事は東京で働くことではなく、いわきの復興に携わることではないだろうか、いつしかそう思うようになった。これが私が地元に戻り、復興に携わる仕事をする、ということを決意させた主な出来事になった。




これからはいわきが震災前よりも魅力的なまちになるようにみんなと一丸になって復興活動に取り組んでいきたいと思う。

37.Aさん

37回目の『いわきの生の声』を掲載しました。今回は『Aさん』が書いてくれました。


2011年3月11日。
私はあのとき、大学の部活動の春合宿で福島県棚倉町の練習グラウンドにいました。
練習中に感じた、揺れ。
でかい。いつもと違う。なんだこれ。
瞬く間に、立っていられないほどの大きな揺れになり、
近くのマンションのアンテナがへし折れるくらいに左右に撓っていて、地面からは地響きが轟音となって鳴り響いていました。
練習から帰ると、そこら中が大騒ぎ。
火事、土砂崩れ。家屋倒壊。
テレビをつければ、津波に飲み込まれる車、人の映像。福島第一原発の水素爆発。
それからも・・語りつくせないほどのいろいろなことがありましたよね。
あの非日常的な事件から、早いものでもうすぐ1年が経とうとしています。

いまや、「サンテンイチイチ」なんて言葉が定着してしまったけど、
言葉だけじゃなくて、あの時の衝撃とか大変さとか思いやりとかってちゃんと日本人の中に残っているのでしょうか。これが最近私の考えることです。
お恥ずかしい話ですが正直、東京で生活してるとたまにあの出来事が、単に悪い悪い夢だったんじゃないかなと、思えてしまうことがあります。
それくらい、こちらでは日常を取り戻している感じがします。
スーパーで米やトイレットペーパーがなくなることもないし、節電掲げながらもイルミネーションは一晩中点いています。
私の周りの人たちも、(気を遣ってくれてるのかもしれませんが)敢えて震災のことを話題にすることはありません。
世間が前向きに進んでいるということですよね。

でも、同時に今でも苦しんでいる人がたくさんいるということは決して忘れてはいけないことだと思います。
命を生活を一瞬で波に持っていかれた人がいるということ、原発事故で故郷を出ていかざるをえなくなった人がいるということ、風評のせいで農作物が売れず生活が苦しくなっている人がいるということ。
前に進むことは必要ですが、震災で今も苦しんでいる人々の心に寄り添っていくことも忘れてはならないことだと自分の中で思っています。

去年の漢字は「絆」でしたね。
確かに日本中の絆が深まった気がします。
でも、“震災があったから”絆が深まった、なんて思いたくない。
震災なんて始めからない方がいいに決まってる。
上っ面の「絆」にならないためにも、本当の意味で被災者に寄り添う姿勢を自分なりに考えることがこれから必要だしそれが真の意味の復興に繋がるのかなーと思っています。
人それぞれ違えど、できることが必ずありますもんね。

わたしも今年の春から、社会の歯車となるわけですが、一いわき人としての誇りを持っていきたいとおもいます。
いわき市が、真の意味の復興を遂げ、みんなにこれからも一層愛される町になりますように。
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