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46.Mくん

46回目の『いわきの生の声』を掲載しました。今回は『M くん』が書いてくれました。


去年の3月11日。私は激しい揺れで目を覚ましました。二日酔いのぼやっとした頭でテレビをつけてみると。映画のような嘘みたいな光景が目の前に広がっていました。家族とは連絡はとれず、不安は増すばかり。通信インフラのあっけない崩壊から、先進国であるはずの日本の脆さを実感しました。
 あれから1年以上経ちます。いわきの復興は進んでいると言えるでしょう。しかし問題はいまだに山積みだと考えています。ざっと挙げるだけでも、今後の防災対策、産業の復興、雇用の創出、そして高齢者への配慮などがあります。どれをとっても先延ばしにすることのできない重大な問題ですが、どの問題を解決するにも資金繰りをしなければなりません。私はいわきの復興を早めるため、またそのための資金を得るためにはいわきだけではなく、日本全体でこの問題に取り組む必要があると思います。日本全体の経済を素早く回し続けることが可能なら景気を上向きに出来、そうすることによって余剰資金を生み出すことができると考えるからです。オリンピックやWカップなどが日本で開催されれば、具体的な方策も生まれるのかもしれないですが、そういった大規模なイベントがない現状、大切になってくるのは日本人一人一人の自覚だと思います。被災地や被災者を自分たちに関係ないものと決め付けずに、常に身近なものとして捉え、自分たちが日本の基盤を支えているという責任感をもってほしいですし、僕たちいわき出身者もそれを訴え続けていかなければならな
いと思います。
以上稚拙な文章失礼しました。今回の震災を乗り越え、いわきが誰からも卑下されず心から誇れる街になるよう願ってます。

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45.Mさん

ご無沙汰して申し訳ありません。


45回目の『いわきの生の声』を掲載しました。今回は『M さん』が書いてくれました。


2012年3月11日 いわき市に住む私の母親は、東京に住む私と妹の家 にいた。前日から泊まりに来ていたのだ。 私は3月11日が近付くに連れて、 メディア全体が震災 という色に染まっていくように感じた。 当然といえば当然なのだが、何か違和感を覚えなが ら。

「復興の兆し」「絆」「忘れない」「まだまだ長い道 のりが~」「がんばろう!」

メディアが担う役割を理解していないわけでも、 斜に かまえるつもりも、ひねくれるつもりも無かったが、 私たち家族はテレビを観る気持ちにはなれなかった。 地震のことを思い出すことが辛い、という理由だけ ではない。

「いつまであたしたちに可哀そうでいろって言いたい わけ。」 母親がぽつりと言った。

テレビから流れる言葉のひとつひとつと、 私たち家 族3人の気持ちとの間には、よく分からない温度差が あった。

支援は、本当に有難い。正直、 今のいわき市があるの は多くの地域や国からの支援があったからだと、本気 で思っている。 原発事故による風評で、 一時ゴーストタウンとまで呼 ばれたいわき市で、人が生活できているのは、 多方面 からの支援によるところが大きい。

私が言いたいのは、だからと言って、私たち家族は、 そしていわき市は、決して「可哀そう」な存在ではな い、ということである。 いわき市は自分の足で立とうとしている。 今はまだ誰かの手や知恵を借りないと、立てない状 況かもしれないが、確実に立ち上がろうとしている のだ。

私の生まれ育った、いわき市常磐湯本町の駅前には新 しいカフェができた。 西郷にある能満寺(小学生の遠足スポット) の近くには 新しい雑貨屋さんができた。 浪江から避難してきた人が開いた浪江焼きそばのお 店は結構流行っている。 現実から目を背けず、今日という日を紡ごうと、 懸命 に生きている。 そんな人や思いを「可哀そう」なんて、誰が言えるも のか。

私たちは不幸ぶるつもりもありません。 だけど、私たちの力だけではできないことが存在す ることも紛れもない事実です。 その時は、助けてください。手を貸してください。 挫 けそうなときは慰めてください。 何をするでもなく、困ったときに「助けて!」 と言え る存在がいること。 それだけで私たちは頑張ることができます。

いつもとは言いません。 たとえば時計の針が2時46分 を指したとき、たまたま見たカレンダーに11日があっ たとき、フラガールのDVDがレンタルショップに並ん でいるのを見たとき、常磐線使ったとき、 そんないつ もどおりの過ぎゆく時間のなかで。 その数秒、ほんの一瞬だけでも、いわき市のことを考 えたり、想像したりしてもらえたら、それが私たちの力です。

44.Sくん

44回目の『いわきの生の声』を掲載しました。今回は『S くん』が書いてくれました。
Sくんは『いわきの生の声』2回目の登場です。


震災から一年以上。
この一年という長さをどのように感じるかは、人によって様々だと思う。日常が取り戻されつつあり、しかし時が止まったままの状況がある。
私自身いわき市に避難しつつも、恵まれた状況で生活を送っている。それが私の日常になりつつある。4号機爆発までの5日間をパニックの中でさまよっていた当時が、まるで夢だったように感じてしまう。
忘れ去る、ということは決してあるまい。しかし当事者でもある私の中で「原発事故」の重みが少しずつ失われているのではないか。鈍感になってしまっているのではないか。漠然とした不安を感じながら、ふとそんなことを思うときがある。この一年という時間は確実に、同じ被災地の中にさえ何らかの「差」を生み出してしまったのではないだろうか。
原発事故関連の避難者が大量に流入しているいわき市では、もとからの住民と避難者の間で感情的な摩擦が生じ始めているようだ。「原発の賠償金で遊び暮らしている」という批判が地元紙に寄せられたと思えば、「仕事がない。生きがいを失った」という声が避難住民から上がる。家財を失ったまま、郷里から遠く離れた避難先で仮設住宅暮らしを続けている人々もいる。

次の一年を私たちは何を感じ、どう過ごすのだろう。
来年の今頃、私の中での震災の記憶はどうなっているだろうか。

43.広野町のOくん

43回目の『いわきの生の声』を掲載しました。今回は『Oくん』が書いてくれました。


あの地震の日以来、僕の住んでいる広野町の環境は 一変してしまいました。
帰省する度に、荒れ果てた海岸通りや原発の影響で人通りの殆どなくなってしまった商店街を目にすると心が痛みます。
しかし自分が将来、この街が以前のようにみんなに愛されていた「東北に春をつげる町」に戻れるように、医療の面から支えられるようになりたいと強く思うようになりました。

今はまだこれは将来の夢の話ですが、夢を実現させた同期のみんなに早く追いつけるよう、自分も頑張りたいと思います!!

42.Aくん

42回目の『いわきの生の声』を掲載しました。今回は『Aくん』が書いてくれました。



あの痛ましい地震からおよそ一年が経過しましたね。

僕は今でもあのときの混乱や心の痛みを頻繁に思いだします。

地震から一年間、情けない話ですが、私は自分の中から、バイタリティみたいなものが極端に少なくなりました。

普段通り行動しているつもりでも、なんというか以前までのように、心の底からヒステリックに打ち込むことができない感覚とでも言いますか。

自分が今していることは本当に正しいことなのか、自分にできることはなんなのか、日々自問自答する日々が続いてました。


ですが、


最近先日、そんなダメダメな僕を変えてくれるある出来事がありました。

いわきの友達がパパになったのです。

そいつの親父になったたくましい顔を見て、ああ自分はもう大人なんだ、ちゃんと生きてかなきゃダメなんだと感じました。

本当に単純ですが、自分にとってそこが転機になり、今ではつまづきながらもすごく前を向けている気持ちがしています。

いつか自分の力でいわきを元気にしたい、なんとなくですがそんな夢もできました。


一歩先に社会人となった方々、間接的だとは思いますが、みなさんのお仕事は必ずだれかの笑顔を作っています。

いわき人のバイタリティーでしかできないこともたくさんあります。

なので頑張ってください。

僕もみなさんに追いつけるよう、精一杯努力します。
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